auショップの顧客アンケート誘導から、今後のマーケティング方式の変貌を予測する

こんにちは。ちゃぼP(@chabo0429)です。

今日、とあるauショップがこんなビラを来店した顧客へ配布したということで、Twitterで炎上しているというニュースを目にしました、

どう思いますか?

って聞くまでもないですねえ。というかちょっと考えればどうなるかわかりそうなものだけど・・・

「アンケートを取って顧客の意見を聞く」というのはマーケティングの王道だけど・・

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アンケートを取って直接ユーザーの意見を聞き、それに対して対応するというやり方は、いわゆるマーケティングの王道で、かなり昔からやられている方法ですね。

例えば、飲食店のテーブルにおいてある「アナタの意見を聞かせてください!必ず当社の社長にお届けします!」みたいな、目安箱的なものって、かなり昔からありましたが、あれも同じやり方です。

 

でも、今回のように数字欲しさにこんなことをやってしまうのは、つまりそれは「親方」からの強いプレッシャーで周りが見えなくなり、「来月の数字が悪かったら、オタクの店、ペナルティーでiPhoneの割当減らすから!」・・と言ったかどうかは不明ですが(笑)相当キツイプレッシャーがあったんじゃないかと推測します。

あまりご存知でない方がいるかもしれませんので、念のために補足しておきますと、いわゆるケータイのキャリアショップ(ドコモショップとかauショップとか)って、キャリア直営のお店ではありません。

いわゆる契約代理店なので、コンビニのフランチャイズ方式に似ているかもしれませんね。だから「KDDIから怒られちゃう」なんて言葉を書いてしまったんでしょうね。

 

直営店なら、おそらくこんな事はしないでしょう。その場合は店長はキャリアの社員になるでしょうから、バレたら左遷されちゃいますしね。

ただ、全国にあまたあるショップを直営するには膨大なコストも手間もかかりますから、こういった方式にしているんでしょうが、こういうやり方が今後の製品、サービスの小売にそぐわなくなる可能性があるんじゃないかと思っています。

そもそも、ネットが発達して、製品はAmazonで買ったほうが安くなる場合もありますし、サービスだってネットで申し込みすれば店舗に足を運ばなくてイイわけですし、わからないことがあったら「チャット」でサポートに連絡すればすべて問題解決ですしね。

マーケティング方式が変わっていく予感

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これからのマーケティングは、提供した製品やサービスを享受した人たち(ユーザー)から直接声を聞くのではなくて、その行動パターンから、満足したのか、不満だったのかを拾ってゆく方法で自社の提供する製品・サービスの価値を図っていく方法に移行していくのではないかと個人的には思っています。

消費者の行動パターンは複雑になり、人による趣向も多様化して、従来の方法ではなかなか画一的な条件のもとに定量化された数値を集めにくくなってきているのが実態です。

昨今話題のIoTを使った情報収集や、スマホの位置情報、電子決済などの情報がこれら新しいマーケティングの情報源となって、ますます私達の生活が見えない何かに監視されるようでちょっと不愉快なこともありますが・・・

新幹線の座席は窓側が良いのか、それとも通路側がいいのか、という考察

こんにちは。ちゃぼP(@chabo0429)です。

突然ですが、皆さんは新幹線や特急に乗ることはありますか?

ワタシは主にクライアントさんが東京である場合が多いので、それなりに東京への出張があります。

 

いまさら言うまでもないですが、福井は田舎でございまして、未だ新幹線が開通しておりません。

数年後、東京オリンピックの少しあとくらいに、現在金沢まで開通している北陸新幹線が福井まで乗り入れてくる予定ではありますが、現時点で東京に行くには在来線(北陸線)の特急で米原まで出て、東海道新幹線のひかりに乗り継ぐ方法が福井では一般的です。

同じように金沢まで出てから北陸新幹線に乗り継ぐ方法もありますが、北陸新幹線はトンネルが多く、ケイタイの電波が届かない区間が多いのです。

 

別にプライベートでしたらそれでもまあいいのですが、仕事で移動している時は結構頻繁に電話がかかってきたりします。

繋がらないのであれば最初から繋がらなければいいのに、着信して通話を開始した途端に切れてしまったり、かけなおしてもなかなか繋がらないということが常でして、これ以上のストレスはありません。

料金もちょっとだけ金沢周りの方が高いので、仕事では専ら米原周りを使います。東海道新幹線はトンネルに入っても電波が切れることがありません。さすがニッポンの大動脈、設備投資にかけている額が違うんでしょう(笑)

 

そんな新幹線、座席を指定するときにいつも迷うことがあります。それは・・・

「指定する席を窓側にするのか、通路側にするのか」

ということです。

「窓側」の利点

旅

ワタシはだいたい窓側を取るんです。座席。

なぜならやっぱり「景色を楽しみたいから」。でも夜の電車なら別に見るものもありませんし、窓側じゃなくても良いんですよね。

それに、乗車時間が2時間を超えますので、ずっと席に座ったままということはありません。トイレにも行きたくなります。

 

ところが、隣の通路側の座席に座っている人がいる場合、これとっても気を遣います。

東海道新幹線はビジネス客が多いため、仕事をしている人も多いのですが、だいたい仕事をしている人はテーブルを倒して、ノートパソコンを広げている人が多いのです。

いや、悪いわけではないんですよ。新幹線の中はある意味落ち着いて仕事ができる空間でもありますから。

でもやっぱり気を遣いますよね。仕事の邪魔しちゃ悪いし、でもトイレには行きたいし。

だから、「スミマセン」と声をかけてテーブルを上げてもらいます。仕事している人はだいたい快く応じてくれます。トイレから帰ってきたらもう一回同じことをしなきゃいけないので、なんか申し訳なくなってしまいますが。

 

で、もっと困るのが「寝ちゃってる人」

先日隣に座っていたサラリーマンは思いっきり足を投げ出して熟睡してしまっていました。しかもテーブルを倒して。これはもう、どうやっても跨いで通ることは不可能。

仕方なく、ちょっと大きめの声で「スミマセン!」と言って通してもらうんですが、用を足して戻ってきてもまた熟睡(笑)

コレにはちょっと参りますね。ま、お仕事でお疲れなんだと思いますから仕方ないんでしょうけど、「そういう人こそ窓側なんじゃないの?」ってちょっと思います。

もしかすると窓側がいっぱいだったのかもしれませんけど、なにかJRさんももう少し対策考えてくれないかな?きっと同じことを思っている人は多いハズ!?

「通路側」の利点

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通路側になれば自分の生理行動で他人に気を遣う必要はなくなります。その点はかなり気楽です。

景色もまあ、別に興味がなければ見えなくても困りませんし。

ただ、やっぱりちょっと制約があって、普通車ですと電源コンセントが使えないんです。

グリーン車ですと各座席に電源コンセントがあるのですが、当然そんな贅沢を会社が許してくれるはずもなく、スマホやノートパソコンを調子に乗って使っているとバッテリー切れを起こし、「充電したくても出来ない」という状況に。

ま、モバイルバッテリーで急場は凌げるかも、ですが、コレって結構大きなデメリットですよね。

で結局どこの座席が一番いいの?

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ワタシなりに考えてみたんですけど、「一番良い」席というのは、「車両の進行方向一番前の通路側」なんじゃないかと思います。

良い席というのはあくまでも「他人に余計な気を使わずに済み、且つデメリットの少ない」という視点で考えた場合です。景色重視、快適さ重視ならまた答えは変わるでしょう。

なぜ「一番前の通路側」なのか。

 

実は新幹線の一番前と一番後ろの各一列はちょうどデッキと客室を仕切る壁の部分にテーブルとコンセントが設置されているのです。

ですから、横一列の5席分のコンセントがあります。ですから通路側に座っていてもコンセントはしっかり使えます。

しかも車両中間部の座席に比べちょっとスペースが広く取ってあって、足元もゆったり出来ます。

スペースが広いですから、テーブルをたためば窓側の人がトイレに立つときもそれほど気を使わずに通すことが出来るという塩梅です。

ね?いい事ずくめでしょ?(笑)

 

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「じゃあ、後ろ側でもいいじゃん!」って思ったアナタ。

一番後ろの席は、自分の後ろが居ませんから、リクライニングも気兼ねなく目一杯倒せますし、たしかに良いことはあります。コンセントも座席の後ろになってしまいますが、コードを伸ばせば充分に届きます。

 

ですが、最近の新幹線は外国からの旅行者が多いのです。

彼らは巨大なスーツケースをその一番後ろの座席と壁の間に置いて自分の座席に移動します。当然網棚には入らない大きさなので、ほかに置くスペースがなく、仕方なくそうしているのだと思いますが、そのおかげでリクライニングがほとんど倒せないケースがあるのです。

そうなるともう、2時間直角に近い座席に座って過ごすことになって、気分もゲンナリ。寝ることも儘なりません。これはかなり苦痛です。

なので、お客さんの数が多いのは分かるんですが、JR東海さんももう少しきめ細やかなサービスに気を配って欲しいなとちょっと思ってしまいます。関西空港などに向かう特急列車などには「スーツケース用スペース」を設けられた車両もありますしね。

 

というわけで、今回はJRさんへの一ビジネスマン(兼素人ブロガー)からのお願いでした〜

集中して作業する時、あなたは音楽派?それとも無音派?

最近、ワタシは読書にハマっている。

通勤は電車かバスを使うが、椅子に腰掛けることができれば、必ずと言っていいほど本を開いている。

iPadでもKindleでもない、昔ながらの単行本だ。

 

敢えて天の邪鬼に「流行りと向こうを張ってるだけ」と言われるかもしれないし、「ハイテクとの決別か?」なんて声も聞こえてきそうだが、決してそんなことはない。普段iPhoneを持ち歩いているし、相変わらずMacBoookは每日使っている。ただなんというか、読書をする際の文字がスクリーンの向こうから照らされている感覚というのは、目が疲れて仕方ない。

ま、ワタシはタブレット端末を所有していないというのも理由の一つにあろう。だがちょっと前は8インチ程度のタブレットは持っていた。だが最初こそ手軽にネットが大画面で楽しめて便利だと每日使い込んでいたが、じきに飽きてしまった。

何故か、「iPhoneで充分」と思ってしまった。うーん、何故かはわからない。

dokusho

本格的な秋を前に、一人「読書の秋」という趣だが、そんな読書の時間はできるだけ集中して本を読みたい。こんなワタシも学生時代は、集中しすぎて電車を乗り過ごした経験も、ある。

だが、「集中する」という時間はなかなか得にくいものだ。今こうやってブログを書いている時間はとても集中しているが、これがBGMのかかる喫茶店だったりすると何故か集中できない。

集中したい時、ワタシは「無音派」

人間は多かれ少なかれ、集中したい時には「音」が密接に関係したりする。

「音楽が鳴っていないと集中できない」という人もいるだろうし、ワタシのように「無音じゃないと集中できない」という人もいると思う。

その違いは何なのか、ワタシは脳科学者ではないからわからないが、例えば電車に乗って読書をするときは、普段音楽やラジオを聴いているBluetoothイヤホンの電源は切ってしまう。

 

今、この時間も無音の部屋で記事を書いている。モーツァルトのヴァイオリンコンツェルトでも聴きながら書いたほうが捗るんじゃないかと思って試してみたが、全然ダメだった!

そういえば車の運転中もほとんど音楽を聴かない。好きな車の運転に集中したいし、助手席から話しかけられても、どうやらワタシはいつも人の話を聞いていないらしい。

集中しないと深い理解を得られない

だれしも学生時代に分厚い教科書や参考書を前に、適当に読み飛ばして「読んだ」と宣言した事はあるだろう。

読書に限らず、そもそも興味がないものに自分の意識を及ぼすのは苦痛だ。そんな対象は集中するなどということにそもそも向いていない。

だが、集中しなければ「深い理解」「感動」を得られないのもまた事実。一旦興味を持ってしまえば、本一冊で人は泣けるし、嫌なことも忘れる事ができる。

メディアの形は人それぞれ、読書なら単行本でもiPadでもなんでもいいし、興味の対象も人それぞれ。そして集中の仕方も様々だ。

 

大事なのは「集中する」ということだ。自分の周りにあるものや出来事を、時間を効率的に使おうと「並列処理」することは、一見合理的に見えるが、印象に残らない。

実は面白いものや素晴らしいと思えるものはきっと身の回りにたくさんあって、普段漫然と眺めているものでも、集中してみれば見えていなかったものが見えてくるかもしれない。

合理的なモノ、生活の仕方だけに捕らわれずに、なにかに集中して、脳を「シングルタスク化」することも、人の精神状態を健康に保つために必要なのではないだろうか。

ジャスティス・ハラスメント、正義の強要がもたらすこの国の将来への弊害

こんにちは。ちゃぼP(@chabo049)です。

今日はちょっと真面目な話題。

私のよく訪れるサイトのひとつに、「路線バス運転士こーくんのブログ」というブログがあります。

そんな中で、こんな記事がありました。

内容としては、JRの運転士が「停車中」に、スマホを見ていたところを乗客が通報したということに対して、この「こーくん」さんは本職の路線バスの運転士。その立場から、私見を述べています。

 

公共交通機関というのは、たくさんの人の命を預かりますので、当然規制されるべきものや、ルールも厳格に定められているのは皆さんもご存知のことと思います。記憶に新しいJR福知山線の脱線事故は、ほぼ運転士の過失と言われていますし、関越道での高速バスの側壁衝突事故などに至っては居眠り運転が原因です。

だから規制が厳しくなるのは当然と言えば当然なのですが、だからと言って「止まっている車内」で、スマホの画面を見るという行為が、それほど危険とは私には思えません。

 

この問題は非常に根深く、むしろ運転士のその行為そのものよりも、まさに「鬼の首でも取ったかのよう」に、乗客が所構わずスマホでその模様を盗み撮りし、公にしてしまうことの方が、社会的に問題な行為に思えてなりません。

本人はこれで、「社会正義のために通報してやったのだ!」と満足感に浸っているのでしょうが、本当にそれが正しいのでしょうか。

「正しい」ということは、いろいろな意味がある

Truth

「一般的に正しい事」というのはたくさんあります。

  • 赤信号では進んではいけない
  • 居眠り運転や酒を飲んで運転をしてはいけない
  • 人に暴力を振るったりしてはいけない
  • 人に迷惑をかけないように配慮しなくてはいけない

などなど。これらはいずれも正しく、人間として大人であれば社会生活を行う上で、当然意識して行動すべき内容です。

 

ですが、

  • 電車やバスの運転士なら、乗務終了まではケータイの電源を切るべきだ!
  • 市役所の職員なら、どれだけ暑くてもネクタイとスーツに身を包むべきだ!
  • ハローワークで職業紹介してもらえないのは、職員の職務怠慢だ!
  • 製品を買ったら使い方がわからない。使いやすいと思って買ったら使いにくかったらそれはメーカーの責任で返品すべきだ!

これって、社会正義でしょうか?

 

確かに、正しいこともあるでしょう。でもわざわざ声を荒げて相手に詰め寄って、社会が変わるとでも?世直しをしたつもりになっているとでも?

こういう人たちの行動は、はっきり言って自分の社会生活に対する不満のはけ口としてしか私の目には映りません。

その人がどんな正しいことを言っていたとしても。

 

正しいことというのは、

  • しかるべき立場の人が
  • しかるべき場所で
  • しかるべき方法で
  • しかるべきタイミングで
  • 自分の言葉で訴えること

これが大前提だと思います。そうでなければせっかく正しいことを言っても、それはいたずらに相手を傷つけ、もしくは仮に相手側の行動が間違っていたとしても、それを是正するどころか、言った側を「クレーマー」として処理するだけです。

私も20代の頃から、ユーザーサポートのお仕事に関わってきましたが、以前はお客様は「神様」扱いでした。どんなお客様でもより良い商品の提供を期待している未来の顧客であり、時に理不尽とも思える申告をされてきたとしても、真摯に受け止め、製品やサービス改良の参考にするべきと言われてきました。

もはや、「お客様は神様」ではない

しかし、今はそんな風潮は変わってきています。

企業にとって、何某かの見返りや特別扱いを期待するためにそういうった「自己中心的」な申告をしてくる「お客様」が多くなってきたのです。

つまり「製品やサービス」の向上を期待しているのではなく、「自分の不満に感じた部分」を相手にぶつけ、「慰謝料」的な見返りを期待しているだけ、という輩が増えたのです。

 

当然、企業はそう言った「お客様」に対する対応は「謝罪」してもその場を収めるだけで何のメリットもありません。時には土下座させられたりまでして、お金を要求してきたりもしますが、その行為には自己中心的な欲求を満たす、もしくはストレス発散の道具としてしか相手を見ていませんから、企業はそう言った輩に対しては、「拒否」をするようになってきました。

これは「お客様は神様」という性善説に基づいたマーケティングから、性悪説に基づくマーケティングに変わったということを意味しているでしょう。

 

ちょっと前に、アメリカでドライブスルーのコーヒーショップかどこかで、熱いコーヒーを自分でこぼしたにも関わらず、その責任はコヒーショップであると裁判を起こして、そのコーヒーショップは莫大な慰謝料を支払ったという報道がありました。

これは対岸の火事ではなく、すでに日本でも起き始めていることなのです。もちろんまだ規模はそれほど大きくはありませんが。

サービス低下が招く、将来のビジネスの弱体化

これからの日本の社会は、ますます「お客様」に対して厳しい目を向けることになるでしょう。企業はユーザーに対して、明らかに警戒を強めています。

そんな企業の姿勢は、確かに自己防衛のために止むを得ないのかもしれません。しかし防衛ばかりしていて、新しいサービスやイノベーションはなかなか生まれないでしょう。

まして、リスクをより大きくしてしまうような新しい事業には踏み出しにくくなるでしょう。

そうしているうちに、日本の企業は外国の企業のイノベーションに飲まれていくことを、私は危惧しています。

 

ジャスティスハラスメント。

それは日本の未来をも萎縮させかねない、大きな問題なのです。

「うつ病は心の病い」ではないかもしれない話

こんにちは。すでに部長に「ローズゴールドいつ買うの?」と言われているちゃぼP(@chabo0429)です。

というか、買わないってばYO!

新型MacBook発売開始。ローズゴールド新登場!

こんな記事書いたから、言われるだろうなあとは思いましたが、翌朝言われた。

早っ!(笑)

で、「買わない」って言ったら、「ちゃぼP格下げの可能性があるな」だって。

えっ、俺、一応WordPress担当じゃなかったっけ・・・(´Д` )

 

でもね、6月のWWDCでMacBook Proが発表されるでしょう?多分ね。

http://nabi1080.com/news/wwdc2016/52288

私は全然この12インチに満足して使っているし、デザイン最高だし、逆にこれより大きくなるのはちょっとちゃぼPセンス的にないのでこのままでいくと思いますが、部長は6月にきっと悩むよ(笑)

買わないって言ってますけど、どうかなー。

とまあ、そんな話はともかく。

今日はちょっとカラダのお話をしたいのです。

うつ病ってよく聞くけど、どこからが病気なの?

いきなり重たい話でスミマセン。ただ、ちょっと身近で起こり得る話なので、ご勘弁を。

 

私のお仕事は、一日中パソコンの前に座ってお仕事をする職種なので、どうしてもストレスが溜まりやすいお仕事です。

そのため、中にはうまくストレスを発散できずに、「うつ病」という病にかかってしまう人もいるのが事実です。

 

「うつ病になった状態」というのは、最終的にはお医者さんが診断をして確定するわけですが、幾つかのWEBサイトでセルフチェックできるようなサイトも見かけますね。

でも、私はああいうサイトでのセルフチェックはしない方がいいんじゃないかなと個人的には思います。

というのも、「あれ、なんか自分、鬱っぽいかも?」と思ってやる自己診断は、あまりアテにならいと思うからです。

だいたいそういったサイトは選択式のクエスチョンになっていると思いますが、そういう時は、ネガティブ思考に陥っている時だと思いますので、ほんの日常の些細な行動パターンすら、病気に結びつけて考えてしまいがちです。

結果、「うつの可能性があります」という診断になり、「ああ、やっぱりうつ病なんだ」と自己診断してしまいます。

こういったことは自分で性急に答えを出さない方がいいと思います。きちんと専門医の診察を受けてから判断した方が賢明です。

鬱というのは、脳の栄養失調という可能性

もちろん、私は医者ではありませんから断定的なことは言えませんし、鬱になる原因もさまざまでしょう。

ただ、鬱とまではいかなくても、誰にも気分の落ち込む時はありますよね。

そんな時はなんとなく食欲もなくなり、何をするにも億劫になってしまいます。

 

それを自分で勝手にストレスのせいにしたり、仕事のせいにしたりと原因を決めつけてしまいがちなのですが、ちょっと待ってください。

実はその原因は、精神的なものではなく、脳に十分な栄養が行き渡らないことによる、物理的なものである可能性があるらしいのです。

うつは食べ物が原因だった!?意外な「脳の栄養不足」

詳しいことは私もよくわかっていませんが、人間の脳というのは、体全体の消費エネルギーのおよそ24%ものエネルギーを消費するらしいです。

脳の重量は約1.5kgしかありませんから、体重と比較しておよそ2%。なのに消費エネルギーは24%というのですから、脳はかなりのエネルギーを消費しています。

したがって、食生活が乱れたり、無理なダイエットなどでバランスのとれた栄養がきちんと脳に行き渡らなくなると、脳の活動が低下して、やる気が起きず、ネガティブな思考になりがちになるというのです。

うーん、確かに考えてみると、ちゃんと食べれていない時はやる気も起きないかもしれませんね。

気分の落ち込んだ時は「セルフチェック」ではなく「焼肉」だ!

私たちが普段「心」と捉えているものの正体は、脳内の神経伝達物質の事を指します。

実際、神経伝達物質の元となる、動物性たんぱく質を多く摂ることが気持ちを前向きにさせ、かつ精神を安定させるようです。

ですから、もし気持ちが落ち込んだ時は、まず動物性たんぱく質を多く含む「焼肉」といきましょう!

ま、人それぞれ抱えているものの大きさも重さも違いますから、一概には言えませんが、自ら病気と決めつけてしまう前に、ぜひ試してみてください!

 

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「世界一貧しい大統領」ホセ・ムヒカの「革命家としての本質」

ウルグアイ前大統領のホセ・ムヒカ氏が来日し、講演したというニュースが各メディアに流れています。

今日も、多くの学生の前で池上彰さんとの対談し、その模様がテレビで放送されていました。

対談の内容は、ニュースやメディア記事に詳細に書かれていますが、今日はムヒカ氏が学生たち、ひいては日本人に語った内容について、ちゃぼPなりにまとめ、所感を述べたいと思います。

「世界一貧しい大統領」というセンセーショナルな代名詞は本人の意思ではない

所有する資産はワーゲンの古いビートル1台。中古市場なら20万円にも満たない車一台です。その車も友人に譲ってもらったものだと言います。

生活も質素で、公用車も使わず、質素な自宅暮らし。

報酬は月10万円。その少ない報酬すら、将来学校を作るための貯金に回して暮らしたそうです。

 

故に、世間は、そのちょっと変わった大統領に、

「世界で一番貧しい大統領」

という見出しをつけてそう呼んでいます。

 

でも、彼は言います。

「貧しいというのは物がないということではない。お金や物があればあるほど、もっともっとほしくなる人のことを貧しいと言う」

 

古典落語にこんな言葉が出てきます。

 

「欲深き 人の心と降る雪は 積もるにつれて 道を忘るる」

 

幕末の偉人高橋泥舟の残した言葉です。

ムヒカ氏の言葉を聞いて、瞬間にこの言葉を思い出しました。

「大量生産、大量消費」はこの国が選んだ正当な道だった

一方で、この国は物質社会、いわゆる大量生産大量消費によって発展してきたように見えます。

事実、この国の国民も敗戦後の貧しい状況から、自分たちの力でこれだけの豊かな国を作り上げてきました。

 

思えば、自らが生き延びるために、これほど苦労を重ねてきた国はないんじゃないかと思うほど、この国は惨禍に晒されてきました。

資源も無く、補給を絶たれて戦争をし、挙句に国中を焼き尽くされて戦勝国に奴隷のような扱いを受けながらも必死に耐えて国を復興させ、経済を世界のトップレベルに押し上げて行ったのは、外国から見たら脅威とすら見えるでしょう。

 

それだけではありません。

この国は様々な災害や事故にも見舞われます。

伊勢湾台風に代表される雨風による被害。洞爺丸台風では青函連絡船が転覆し、1,000人以上の犠牲者を出しました。

戦後だけでも、阪神大震災と東日本大震災という巨大地震に遭遇して、たくさんの人が犠牲になり、現在進行形の原発事故まで抱えている。

fukushima photo
Photo by yisris

それでもこの国の底力は、必ず復興してゆく強さです。

決して逃げることはなく、じっと耐えて頑張るのです。

そして日本人は、決してそのことを忘れず、二度とこんなことが起こらないような方法を考えて実行します。

 

確かに、大量生産、大量消費は文明を発展させる代わりに、環境や資源を食い荒らします。

そして「経済成長」という名の下に、日本人の生活を快適にするのと引き換えに、少しずつ自由な時間を奪っていきます。

でも、それは「資本主義社会」の導き出される出るべくして出る結論だと、私は思いますし、それが日本人の選んだ道なのです。

「お金ばかりが幸福ではない」に感じる違和感

ムヒカ氏の話を聞けば、「人間にとってお金ばかりが幸福ではない」と思うでしょう。

でも、私たちは「結局はお金がなければ辛い思いをする」という事を知っています。

なぜこのような事になるのか。

 

物質的に満たされることで得られる幸せが、確かにあるからです。

私だって、MacBookを開いてD5500で写真を撮り、雰囲気の良い喫茶店でブログを書くことに幸せを感じるのですから。

 

ムヒカ氏はこうも言います。

「日本はこれから極端な高齢化社会を迎える。これから社会は孤独に苦しむ老人たちのための社会基盤を作らなければいけない。」

 

今の若い人たちがその言葉を聞いて何ができるのでしょうか。

「ボランティア活動をして、無報酬で働く」

「デモに参加して政府の政策を批判する」

これらは一つの意思表示ではありますが、何かを変えることは多分できないでしょう。

「若者が希望を持てる世の中」とは

私がムヒカ氏の言葉を聞いて一番思ったことは、今の日本は決して絶望ではないけれど、「多くの若者たちが希望を持てる世の中でない」ということ。

物質的に満たされ、夢を持てと言われても、なんとなく流れる時間に身を任せて生活していれば、「何かを変えて幸せになりたいとは思わない」のが普通の人間だからです。

 

危機的な高齢化社会がすぐそこまでやってきていて、医療費や年金が極端に膨張するのに反比例して労働人口が減ってゆくことは、日本人なら誰でも知っています。

労働人口が減るから政府は税金を増やして対処しようとするけれども、肝心の労働者の報酬は増えるどころか減っています。給与が安いままなのに税金が増えていく世の中に、希望があるでしょうか。

でも何もできない。それは政治家すら同じなのです。

 

この国の未来を左右するのは若者です。

その若者が「未来を変えたい」と心の底から思えるような社会にするために、大事なことは、若者に「選挙に行って投票しなさい」と啓蒙活動することではありません。

真面目に働き、仕事をした分の報酬をきちんと本人に還元して、余裕のある暮らしを提供することから、この国の若者の未来が明るくなっていくのだと私は思います。

つまり、「散々儲けてきた年配の経営者が、気力と能力ある若者にしっかりと正当な報酬を与える」ということがあって初めて、将来の高齢者を若者が支えることができる未来が開かれるのではないだろうか。

あとがき。

ムヒカ氏は、若かりし頃は革命家でした。

貧しい家に生まれ貧困の中で育ち、一部の裕福な連中の富の独占に立ち向かって行ったのが彼でした。

4度の逮捕によって、刑務所では10年以上の独房生活と拷問に耐えた末に今があります。

彼はそこで地獄を見て、実体験をもとにした発言が今私たちに語られる彼の結論です。

 

しかし、私たち日本人も多くの地獄を見てきたのです。

戦争、災害、貧困。

日本人もそれらを経験して、努力して出した結論が今の日本です。

 

私は今の若者よりも、今の年配者に未来のことを考えてもらいたい。

数々の地獄を経験してきたこの国に生きる年配者は、どうやって若者に未来を想像させることができるのか。

そう思って止みません。

世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ
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ブログを書く上で大切なのは、「国語脳」より「数学脳」だ

こんにちは。ちゃぼP(@chabo0429)です。

今日は雑談です。

それも、ブログ執筆に必要な考え方について、という深〜いお話です。

あなたは理系?それとも文系?

学校を卒業して社会人になっても、いろいろな場所で繰り広げられるこの議論ですが、それぞれの特徴ってなんでしょうか。

文章が得意なら「文系」で、計算が得意なら「理系」・・・

と、それは学校を出るまでのハナシ。

 

社会に出れば当然のことながら、ただ文章を書いていて食べていける人はほんの一握り(作家、作詞家、脚本家、新聞記者、、、)でしょう。

同じように、計算ばかりして生活できる人も一握り(公認会計士、税理士、、、)ですよね。

それでも、どんなお仕事でも文章を書くことは必要となりますし、計算も同じことです。

 

社会に出て必要とされる力は、「応用力」です。

基礎的な知識は、あくまで仕事を遂行するために必要とされる土台でしかありません。

基礎の上にさらに高度なテクニックや知識を積み上げ、そしてそれらをどう組み合わせ、人の役に立つ、高度な製品やサービスに発展させてゆけるかがその人の「仕事力」を左右します。

 

ブログを書く=文章力を求められる?

ブログを書いていて、部長ともよく話をするんですが、自分のことってわからないよね〜ってお互いよく言います。

部長が熱い記事でレビューしたり、西城秀樹で叫んだり(笑)するのは面白いし、学校の先生しているというキャラクターもありますし、みんなに支持される理由はよくわかります。

 

でも自分のことは全然わからんですね。

部長には「繊細な感じがちゃぼPらしい。スゲー」とか言われますけどね。

で、いろいろとA型の私は考えちゃうわけなんですが、ブログって、文章としてはちょっと異質な存在だなと思っています。

 

何よりブログには「起承転結」という大前提がほとんどありません。

ブログの記事はだいたい一つの記事の文字数は1,000文字〜3,000文字程度。長いもので5,000文字程度でしょうか。

400字詰め原稿用紙にすると2枚半〜8枚程度、多くて10枚程度のものです。

この長さで、「起承転結」を挿入すると、途中に3回も場面転換することになってしまいます。これはブログでは多すぎです。

 

それに、読む人も常連さんはひとつの物語としてしっかり読んでくれる場合もあると思いますが、大多数の人が、検索からたどり着いた「一見さん」なので、そこに求めるのは「情報」であり、「物語」ではないのです。

では、その限られたスペースに何をどうやって書いた方がいいのかということになってきますが、だからと言って「結論ありきの情報」だけを書き記してもそれはニュースでしかありませんよね。

 

プロブロガーと呼ばれるスゴイ人たちの有名なサイトには、その速報性を求めてたくさんの人たちが訪れます。そういうサイトでは「ニュース」に対する需要が少なからずあるでしょう。

でも私のような仕事の傍ら、1日に1記事をやっとこさ書いているようなサイトでは速報性も低いですし、そもそも需要があまりありません。

 

だから、レビュー記事にしても、WordPress関係の記事にしても、そこには「自分らしい文章」「自分らしい考察」、そして「自分らしい写真」を武器に、リピーターになってくれる人をなんとか増やそうと思っているわけなんですが、、、

そこで必要となってくる「ブログ執筆に対する考え方」で重要なものは何かとういうこと。

それはきっと文法やストーリープロットよりも、「ロジカルシンキング」なのだと思っているのです。

論理的思考が実は一番人間にとってわかりやすい

情報を得る上で、私たちが一番理解しやすい情報というのは、

  1. 短くて
  2. 余計な情報がなく
  3. 特徴がわかりやすく
  4. 他との比較があって
  5. 書き手が自分の感想や考察を加えてあり
  6. 視覚的にも魅力である

ということじゃないかと思います。

 

例えば・・・

  • 私はスマホを新しく買いました
  • そのスマホのスペックはCPUがAppleのA9xで前のモデルから性能が〇〇割向上
  • メモリが◯GBに増加、ディスプレイは引き続きRetina
  • カメラは〇〇万画素
  • OSは最新です

というブログの記事があったら、おそらく元からその機種が気になっていて調べている人以外は、「ふ〜ん」と一瞥してそれっきりになってしまうでしょう。

ここでもし、

  1. 新しいスマホの名前はiPhone SE
  2. CPUが進化してで店頭で試したらネットの読み込み速度がスゲー上がっててビックリ
  3. 今回の目玉はなんといってもサイズとカメラに性能で、中身は最新機種の上を行く
  4. 対抗馬の〇〇と比べると、電池が〇〇時間長く持ってカメラの性能もブラウジングも圧勝
  5. 結果、もう前の機種が陳腐に見えて速攻機種変した
  6. スーツや上品な洋服にも、カジュアルにもよく似合う写真がステキング!

というような記事があったらどうですか?

きっと一見さんも読んでくれるんじゃないかと思います。

もしかしたら、その後のアップデートの記事や、今後発売されるアクセサリー類の紹介記事が出てくるかもしれないと思ってくれれば、リピータにも繋がるでしょう。

 

つまり上に掲げた6つの項目は、あくまでその製品の簡単な紹介と試しに使ってみた感想、一押しの特徴と他機種との比較、購入に至った経緯と動機、そしてデザインを示す写真と、よくよく見てみれば、「事実の積み上げ」と「比較」がメインで、そこに読む人がイメージしやすくなるような「ポスター」を加えています。

これは文章力や国語力という前に、「〇〇がこうだから、これはこういう使い方に最適だ」という皆が納得出来る結論を導き出せるという論理的思考がベースだと思うのです。

当然文章力があった方が、話を色々と広げやすくできますから、ないよりあった方がいいと思いますが、文章力はある程度文章を練習しなければうまく書くことは難しいでしょうから、それよりもロジカルに自分が感じたことを根拠を持って説明した方がいいと思っています。

私がスゴイと思う記事を二つだけご紹介

一つ目:今日はこれを証明しようと思う

http://www.proof0309.com/entry/amari

keitaさんのブログ。数学の「余り」についての記事ですが、いわゆる「ロジカルシンキング」とはこういうことだ、ということがすごく分かりやすく書いてあります。

一見ブログの書き方については関係ないように見えますが、こういうことがブログの書き方に影響を与えると私は思っているので、紹介しました。

実際、keitaさんはとてもまだ若い方のようですが、何度かDMを交換して、教えてもらったこともありますが、腰が低くて感じのいい青年でした^^

この人のすごいところは、昨年の10月にブログを立ち上げて、現在記事数150程度にもかかわらず、既に10万PVを突破しているということ。

思わず「どうやったんですか?」と聞いちゃいましたよ・・(汗)

二つ目:わかったブログ

http://www.wakatta-blog.com/design-beginner.html

こちらは有名なかん吉さんのブログです。

たくさんの優れた記事があるのですが、先日の記事に「デザイン」を解説されている記事があって、私も写真を撮りますが、写真に限らず、風景や建築物でも優れたものは一定の法則がある、という内容が書かれていました。

「黄金比」はよく耳にする言葉です。何かをデザインしたり、それを撮影したりするにあたっては、この黄金比が人間にとって非常な重要度を持つらしいのですが、私はうまく説明できないので、サイトの方をご覧ください。

写真については、多分プロカメラマンのカメ仙人が私なんかよりうまく説明してくれるはず(笑)

つまりこれもロジカルシンキングで導き出された一つの結論で、「なんとなく美しい写真」よりも「しっかりと根拠を持った構図で撮影された写真」の方がよりブログには適した写真、ということが言えるんじゃないでしょうか。

あとがき。

そういえば、部長は数学の教師だったしー(笑)

まあ、学校の先生という職業柄、文章を考え、生徒の前でしゃべることを考え、都度書き方もしゃべる内容や順番を考えているのだと思いますから、文章も得意なのは当たり前といえば当たり前ですね。

ただ、そうは思いますが、きっとそれは「先生しているから文章書ける」んじゃなくて、「文章が好きだから、仕事でも書いてる」ということだとちゃぼPは予想します。

だって、先生しているから文章が書けるなら、教師はみんな部長みたいな文章が書けることになりませんか??

そんなことありえないですよねー。はあああああアアアアアん?とか(笑)

まあ、西城秀樹は別として、部長の文章が読者はじめ、メーカーさんや同業の方にも高評価なのは、ロジカルシンキングがベースにあるからなんじゃないかなぁ。

と、ちょっと長い雑談でしたが、皆さんはどう思いますか?

ご意見あったら、ぜひお寄せくださいね!

不思議な出来事~親子の絆

それなりに長く生きていれば、不思議なことの一つや二つ、出くわすものである。

例えば、昨年母が他界した際は、既にアルツハイマー病末期で、私のことはとうにわからなくなっており、長いこと施設に入っていた。

これまで何度か肺炎などを起こして危険な状態になったのだが、そのたびに持ちこたえていた。

***

そして昨年夏、施設から、同じような状態になったと連絡を受けた。

私の住む街は福井、母は東京である。

そうそう行ける距離でもなく、何かの折に顔を見せることくらいしかできないでいた。だが何がそうさせたのか未だにわからないが、今回は急遽新幹線のチケットを取って東京へと向かったのだった。

 

日曜日の昼過ぎに連絡を受けて急いで身支度をし、電車に乗れたのは16時頃。東京についた頃には夜になっていた。

面会時間を過ぎていたが、無理を言って施設に入れてもらって、呼吸の浅くなった母の手をさすった。

私が何を言ったか、あまり覚えていない。おそらく「もう大丈夫だよ」というような言葉をかけたと思う。

 

しばらくそこで母の様子を見ていたが、面会時間を過ぎていたこともあり、あまり長居もできないので、一旦ホテルに引き上げることにした。

そしてホテルで一息つくかつかないかという時に、ケータイが鳴った。

母は静かに息を引き取った。

 

虫の知らせ、ということをよく耳にするが、本当にあるのだと実感できた出来事だった。

そして、いくら認知症になり記憶がなくなろうが、魂はきっと覚えているのだとリアルに感じ、不思議でもあった。

もし仮に、今同じように自分の両親が認知症を患い、肉親に対し、子どもたちに対し、他人に冷たく当たるような態度で当たるようになってしまったご両親がいるご家庭があったら、是非覚えていて欲しい。

 

魂まで病気で消すことは出来ないということ。脳の記憶はなくとも、心の記憶は消えないということ。

「記憶がない」というのは、それは単に記憶を司る組織が病に冒されているだけ。だから「自分のことを忘れてしまった」と落胆する必要はないということ。

そして子供にとっても、両親が元気な頃の記憶は、そのまま思い出に生き続けるということ。

 

望みはどこかに必ず、ある。