今の意見が過去の意見と違ったっていいじゃない!

政治家が他の政治家に向かって、

「あの時あなたはこう言った。今は真逆のことを言っている。責任とって議員辞めなさい!」

と国会中継などで叫んでいるのを目にすることがある。

「前これを勧めてくれたから買ったのに、今は別のものを使って「こっちの方がいい」みたいなことを言われて裏切られた!」

なんて、ブロガーやYoutuberを批判するようなコメントを見たりすることもある。

 

・・・でも、それって普通のことじゃない?

 

だって、誰だって、生きてればいろいろな刺激を受けるし、影響も受ける。

毎日、漫然と同じことを考え、同じ作業をしていては、生きること自体に飽きてくるし、苦痛にもなってくる。

人間は本能的にそれを避けるために、いろいろな刺激を求めるようにできていると私は思う。

5年前の自分から今の自分は5年分進化している

考えてみて欲しい。

5年前のあなたは、今のあなたと、好きな歌も食べ物も、好みの異性も、若干でも違っているでしょう?

ワタシはスマホがこれだけ流行る前、ガラケーこそが最高のケータイだと思っていた。

電話としての機能は完璧だし、メールもテンキーで打てて、そこそこ大きいカラー液晶で見やすく、カメラもケータイのカメラとしては十二分な写り。

本気で写真撮りたきゃデジカメがあるんだし、Suicaも使えてワンセグでテレビも見れて、電池も長持ち。

「なんであんなスマホなんて、スペックダウンするようなものがいいの?Suicaついてないし、テレビも観れないジャン!」

と思っていた。

 

でも今は全然違う。当然だけど。

スマホのインターフェースもアプリも、勿論進化したのもあるが、こんな便利なものはないとすら思う。

カメラだって、ビックリするくらい高画質の絵が撮れるし、Suicaが使いたければSuicaが入るケースに入れればいい。

そんなことより、ガラケーでたまにメールを打とうとすると、こんなに不便なインターフェースでチマチマと文字を打っていたのかと思えるほど、スマホの入力インターフェースは優れていることに気づく。

 

多少の欠点はむしろ個性と思えるほどに、スマホのデバイスとしての利便性、可能性は単に機能やメカとしての優秀さというスケールでは比べられないのだ。

もちろん、ガラケーを否定するわけではない。製品自体、いいものがたくさんあった。今はだいぶ少なくなったけれど。

それでも、デバイスとしての限界がガラケーには来てしまっている。やっぱりテンキーで操作できる守備範囲はどうしても限られてしまう。

よりよい未来は、刺激を受けて変わってゆく

と、スマホの優秀さをここで語りたいのではなくて、人間はやっぱりいろいろな刺激を受けて、自分の考えも生活も変えて、生きていくことが自然な生き方なんだろうと思う。

だから、「あの時あなたはこう言っていたでしょ!責任取りなさい!」というもの言いは違うと思うなーと、どうしても感じる。

かのスティーブ・ジョブスも発言はいろいろ変ったらしいし、有名なiPad Proが発売になったときの「スタイラス論争」も同じじゃないだろうか。

 

確かに、iPhoneが最初に公に発表されたプレゼンのその席で、

「最も優れた入力デバイスは何だ?スタイラスか?答えは「ノー」だ。最も優れたデバイスは、誰もが生まれながらにして持っている「Finger」だ。スタイラスなんですぐに失くしてしまうよ!」

と彼は言った。

これはYoutubeでたくさんの動画が上がっているからウソでも何でもない。

でも、今ジョブズが生きていたら・・・

 

そんなことを考えるのは無意味だけれど、今でも「スタイラスなんていらない」なんて言うだろうか。

ApplePencilはiPhoneが開発されたころには当然なかったのだし、iPadすらなかったのだ。

技術革新が起こって新しいハードウェアやソフトウェアが生まれれば、それに適したデバイスを生み出すのは自然の流れじゃないだろうか。

 

まあ、昨日と今日で言ってることが180度異なる人は、確かに周りの人に多大な迷惑をかけるので、その辺はある程度の常識をもって生きていく必要があるけれど(笑)

つまりは、変化することは正しいし、誰かが物事を「正しいと思う未来」にシフトしていこうとすることを、他の人が止めようとするのなら、その人もまた「自分の正しいと思う未来」を示さなければフェアじゃない。

そうでなければ、そこには「停滞」と「マンネリ」しか残らない。

変化しないことへの依存は、人には誰にもあるけれど、悲しいかな、人間は新しい空気を取り入れなければ生命の維持が出来ない生き物なんじゃないかな。

 

変わってほしくないものも確かに、ある。

それは故郷であり、帰るべき場所であり、ホッとできる場所だ。

でも、僕らは歩き続けるからこそ、時々変わらない故郷の海や山里に戻って原点回帰できる。

人間は勇気を持って、変わるべきだし、それを楽しむべきだ。