認知症を患った方が、徘徊の上に列車に轢かれ、亡くなった事件。
その事件について、JR東海がご家族に賠償請求を起こし、地裁、高裁では家族に監督責任があると賠償命令を出していました。
今日、最高裁への上告審で、家族の賠償責任はないという家族側の勝訴(原告敗訴)の判決が出て、大きくテレビでニュースに取り上げられています。
今回の判決では、家族だからといって、即時監督義務を負うわけではなく、家族の監督義務は個々の事情や状況を勘案すべきという判決の趣旨であるとのこと。
私ごとですが、母が今から20年ほど前に若年性アルツハイマーにかかり、一昨年他界しました。
ですから、このご家族の気持ちはいたたまれない気持ちで、ちょっといつもと違う感じではありますが、真面目な話をしたいと思います。
原告であるJRも被害者であるという事実
今回の報道だけを聞いてしまうと、何かJR側がお金のことばかり考えているかのような感じを受けてしまいますが、それは違うでしょう。
JRからしてみれは、法律にのっとって列車を運行しており、列車の運行は地域住民への公共交通という責任を負った行為です。
当然ながら、人身事故を起こせば、たくさんの利用者に大きな迷惑がかかりますし、運転士さんはじめ現場の方はもしかしたらトラウマになるかもしれません。
そして、列車が止まれば、振替輸送や特急列車の払い戻しなども発生するわけですから、事業者にとっては大きな金銭的損失が発生します。
だから、こちらに過失がないにもかかわらず、事故が起きるたびに持ち出しになってしまうのはおかしい、と考えるのは至極真っ当ではないかと思います。
監督責任という言葉
ただ、やはり認知症という病いを家族に持った経験を持つ身からすると、これは「監督責任」などという一括りにはできない問題だと思うんです。
子供の保護者は一般的には親ですよね。未熟な子供の行動には親が責任を持つのが普通ですし、法律的にも保護者は子供の行動に責任を負っています。
ですが、配偶者や兄弟、親が体だけは健康で、精神が子供に戻ってしまったらどうするのか。
そこまではまだ法律も追いついていないのが今の日本の現状です。
だって、いくら家族とはいえ、本当に徘徊を防ぐためには、拘束するしかないですから。手足を縛るか、家に監獄のように鉄の檻をつけて外からガッチリと鍵をかけないと、簡単に出られてしまいますもん。
家族が認知症になったら
家族が認知症になった時、家族が選択する道はふたつ。
一つは自宅で介護。もう一つは施設に入れること。
やはり長年一緒に暮らした家族ですから、できるだけ自宅で介護したいのは普通の感情です。
よく、「施設に入れるなんて冷たい」という声を聞くことがありますが、とんでもない。
できれば自宅で介護したいのです。
でも、そんな甘いものではない。
当然ですが、体は成人ですが、精神は子供に帰っていますから、身の回りのことができません。
一人で着替えることも、食事を取るのも、トイレに行くにも。
全て介護が要ります。その上、いつ何時勝手に外に出て行ってしまうかもしれないわけです。
しかも家族の介護は24時間続くわけですから、心身ともに疲労困憊します。
私の母も、病気になってすぐの頃は、よく徘徊をしていました。
私の家は東京都内でしたが、普通に買い物に行ったと思ったら、4時間も5時間も帰ってこない。
これは大変と家族が大騒ぎして思い当たる場所を色々探してもどこにもいない。
そうしているうちに、3つも市をまたいだ警察署から「奥さんを保護しています」と電話がかかってくるんです。
慌てて迎えに行くと、身体中汗まみれで真っ白になった母が震えているわけです。
「おかしいなあ、こんなはずじゃないのに・・・」
と帰りの車内で母がずっと呟いていて、私はハンドルを握りながら、暗澹としていました。
誰だって、病気になんかなりたくはないし、本人が一番辛いはずです。
でも我が家も結局母を(正確には父が、ですが)施設に入れました。
自宅での介護は本当に限界があります。
家族ももちろん辛いんですが、どこかで線を引いて、自宅での介護はこれ以上無理だから、施設に入れようと決断して、ちょっとホッとするんですよね。
もう行方不明になることも、警察から連絡が入ることもない。
でもね。
そういう認知症患者の入所する施設というのは、まだ初期の人にとっては本当にキツイと思います。周りは徘徊したり、独り言を一日中喋っていたりという患者さんばかりですから。
だから、「私をこんなところに置いていかないで」と懇願されて困りました。泣いても何も解決しないのはわかっていても、泣けてきました。
自分の経験が全てなんていう気は毛頭ないですし、もっと大変な事情を抱えておられるご家庭もたくさんあると思います。
ですが、認知症の患者さんの家族は多分ギリギリの状態で踏ん張っているということも是非忘れて欲しくないなと思います。
これはこれからの社会で、どこかできちんと向き合い、答えを出していかなければいけない社会問題なんだと思います。