最近、ワタシは読書にハマっている。
通勤は電車かバスを使うが、椅子に腰掛けることができれば、必ずと言っていいほど本を開いている。
iPadでもKindleでもない、昔ながらの単行本だ。
敢えて天の邪鬼に「流行りと向こうを張ってるだけ」と言われるかもしれないし、「ハイテクとの決別か?」なんて声も聞こえてきそうだが、決してそんなことはない。普段iPhoneを持ち歩いているし、相変わらずMacBoookは每日使っている。ただなんというか、読書をする際の文字がスクリーンの向こうから照らされている感覚というのは、目が疲れて仕方ない。
ま、ワタシはタブレット端末を所有していないというのも理由の一つにあろう。だがちょっと前は8インチ程度のタブレットは持っていた。だが最初こそ手軽にネットが大画面で楽しめて便利だと每日使い込んでいたが、じきに飽きてしまった。
何故か、「iPhoneで充分」と思ってしまった。うーん、何故かはわからない。
本格的な秋を前に、一人「読書の秋」という趣だが、そんな読書の時間はできるだけ集中して本を読みたい。こんなワタシも学生時代は、集中しすぎて電車を乗り過ごした経験も、ある。
だが、「集中する」という時間はなかなか得にくいものだ。今こうやってブログを書いている時間はとても集中しているが、これがBGMのかかる喫茶店だったりすると何故か集中できない。
集中したい時、ワタシは「無音派」
人間は多かれ少なかれ、集中したい時には「音」が密接に関係したりする。
「音楽が鳴っていないと集中できない」という人もいるだろうし、ワタシのように「無音じゃないと集中できない」という人もいると思う。
その違いは何なのか、ワタシは脳科学者ではないからわからないが、例えば電車に乗って読書をするときは、普段音楽やラジオを聴いているBluetoothイヤホンの電源は切ってしまう。
今、この時間も無音の部屋で記事を書いている。モーツァルトのヴァイオリンコンツェルトでも聴きながら書いたほうが捗るんじゃないかと思って試してみたが、全然ダメだった!
そういえば車の運転中もほとんど音楽を聴かない。好きな車の運転に集中したいし、助手席から話しかけられても、どうやらワタシはいつも人の話を聞いていないらしい。
集中しないと深い理解を得られない
だれしも学生時代に分厚い教科書や参考書を前に、適当に読み飛ばして「読んだ」と宣言した事はあるだろう。
読書に限らず、そもそも興味がないものに自分の意識を及ぼすのは苦痛だ。そんな対象は集中するなどということにそもそも向いていない。
だが、集中しなければ「深い理解」や「感動」を得られないのもまた事実。一旦興味を持ってしまえば、本一冊で人は泣けるし、嫌なことも忘れる事ができる。
メディアの形は人それぞれ、読書なら単行本でもiPadでもなんでもいいし、興味の対象も人それぞれ。そして集中の仕方も様々だ。
大事なのは「集中する」ということだ。自分の周りにあるものや出来事を、時間を効率的に使おうと「並列処理」することは、一見合理的に見えるが、印象に残らない。
実は面白いものや素晴らしいと思えるものはきっと身の回りにたくさんあって、普段漫然と眺めているものでも、集中してみれば見えていなかったものが見えてくるかもしれない。
合理的なモノ、生活の仕方だけに捕らわれずに、なにかに集中して、脳を「シングルタスク化」することも、人の精神状態を健康に保つために必要なのではないだろうか。