【書評】新幹線を走らせた男〜十河信二という国鉄老総裁が今日のニッポンを作ったのだ

今日は、とっても面白い本を読んだので、慣れないことではありますが、書評をしてみたいと思います。

ワタシ、ビジネス書とか嫌いなんです。いかにも「売るための本」という感じがして(そりゃ出版社からしてみれば売れなきゃ意味が無いんですけど)イヤなんです。

ひねくれ者かもしれません、ワタシ。でも、本に限らず著作物とか音楽とか写真とか絵画とか、見るものの心を躍らせるようなものじゃないとどうしても好きになれないんです。

昔、音楽の専門学校に通っていた時、講師だったの結構有名なドラマーのひと(松田聖子のバックバンドとかやってた)がこう言ったんです。

 

「歌う」って言葉、どっから来たか知ってる?

「歌う」はね、「訴う」から来ているんだよ。あ、あくまでも俺の説ね(笑)。でもね、歌う人が心を込めて相手に何かを伝えようとしなければ、絶対に伝わらない。いくら歌がうまくても、ただの「カラオケの上手い人」で終わってすぐに忘れられちゃうんだよ。

もちろん技術も大事だよ。でも一流の人にはそれほど歌がうまくない人だっているのよ。でも聴くとスゴく惹かれる。ものすごい熱いメッセージがビンビンに心に響いてくる。それは一生懸命何かを歌を通して伝えようとしているからだと思うのね。

だから、この中でプロの歌手になる人が何人出るかはわからないけど、歌うときは必ず「訴う」気持ちを忘れないでほしいと思うんだ・・・

 

私の専攻はボーカルコースでしたから、この話にスゴく心を惹かれて、今でもその時のことは鮮明に覚えています。

人間の作り出すものには情熱が込められています。歌や芸術に限らず、工業製品にだって。ジョブズの作ったiPhoneやMacには彼の情熱が込められていると思うんです。だって機能や性能だけを比較したら、他にも優れているモノはあるでしょう?

でもそこに明確なメッセージが込められているからこそ、共感した私たちはそれらを手にし、愛することが出来るんだと思うのです。

 

と、余談が長くなりましたが、今日はそんな「アツい」本を一冊紹介してみたいと思います。

昭和30年初頭、日本は高度経済成長を前に、流通の危機にあった

昭和30年といえば、終戦からたった10年しか経っていない時期です。私、最近よくAmazonビデオでハリウッド映画をよく観るんですが、古い映画も好きで観ます。

昭和30年といえば日本ではまだまだ白黒映画が主流。でも欧米では当たり前にカラーです。なにせ、終戦の頃にカラーのゼロ戦が撮影されているくらいですから。もうそりゃ日本という敗戦とその後の貧困で生きていくのがやっとという時代に、アメリカでは整然とした街並みに美しいピッカピカの自動車が走っているのです。国力も技術力も、日本のそれに比べたら大人と子供の差がありました。

 

当時、日本はまずは戦争で荒廃した交通インフラをなんとかしなければならないと、官民挙げて必死になっていました。切れた道路を繋ぎ、破壊された線路や車両を修復し、資源も乏しい中で成長著しい復興経済の支えとなるべく、国民の足となる鉄道の需要になんとか応えようと、日本国有鉄道(国鉄)も必死に喘いでいました。

日本は狭隘な土地です。急峻な山々と海の間にある平野部をなんとか開拓して街を作り、当時唯一と言ってもいい資源である石炭を、炭鉱夫が命がけで掘り出していた時代です。

 

町から町への主な大量輸送の手段は船か鉄道。道路は国道1号線ですら未舗装の場所だらけでした。

頼みの鉄道の主役は蒸気機関車です。「デゴイチ」「シロクニ」なんという戦前設計の蒸気機関車を重連(2つの機関車を繋ぐ)で長大で超満員の客を引っ張って輸送を確保していました。

ところが日本は街を少し外れれば山また山です。そこに橋をかけ、トンネルを掘り、峠をなんとかやり過ごして移動していました。

だから、頻繁に事故が起きます。当時、当然まだコンピュータなどというものはありませんから、信号というものすら人力です。地方の路線ではタブレット通票という金属の丸い板を機関士が受け取り、顔をすすで真っ黒にしてそれを頼りに運行していました。

だからミスも起きます。信号見落とし、速度超過、連絡ミス。その度に大事故です。そこに戦後の設備や車両の酷使がたたって、ブレーキ故障が発生して列車が暴走するということも追い打ちをかけます。そうして戦後からしばらくは100人単位での死者を出すような事故が頻発しました。

一方で、東海道線などの主要幹線は、線路容量の限界が近づきつつありました。激増しつつある物流や人の移動に対して、圧倒的にインフラが貧弱で追いついていなかったのです。だからこれをなんとか解決するために、一刻も早く手を打つ必要がありました。

 

船もあります。日本は島国です。本州から遠く離れた四国や北海道には鉄道を直接通す訳にはいきません。だから「連絡船」を国鉄が運営して物資を運んでいました。四国と本州を結ぶ「宇高連絡船」、北海道と本州を結ぶ「青函連絡船」。どれも大事な生命線だったのです。

 

これらもまた、大事故を起こします。

俗に洞爺丸台風と言われる台風が津軽海峡を襲い、函館を出港した直後、巨大な青函連絡船「洞爺丸」が無残に沈没します。死者行方不明者1,000人以上。タイタニック号の死者に次ぐ大惨事です。当時はまだ気象衛星のない時代でした。

四国では修学旅行生を載せた「紫雲丸」が衝突により瀬戸内海に沈みます。死者100名以上。「紫雲丸」という船の名前も「死運丸」とあだ名されました。

国鉄はこうして、陸上でも、海上でも多くの人命を犠牲にしてしまっていたのです。

第3代国鉄総裁、十河信二は就任時既に71歳。「博物館から引っ張り出されたオンボロ機関車」

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まさに国鉄は金もない、技術も未熟、資源もないなかで、存続の危機にすら瀕する重症の公共事業体でした。問題は山積どころの騒ぎではありません。

しかも当時の国鉄職員や労働組合は縄張り意識が強く、決して一枚岩でこの困難に立ち向かおうという状況ではなかったのです。

紫雲丸事故で2代目に長崎総裁が引責辞任をしたあとは、なり手がありませんでした。そこで白羽の矢が立ったのが十河信二というひとりの老人。

戦前戦中は満鉄理事までやっていたエリートでしたが、老齢と高血圧を理由に神奈川の小田原近くにある国府津という場所で、ひっそりと隠居暮らしをしていたのでした。

彼は、当初もちろんその話を断りますが、たくさんの政治家の懐柔に最後は根負けします。

就任の挨拶に立った十河信二は、こう述べます。

 

「最後のご奉公をするつもりで、線路を枕に討ち死にをする覚悟で大いに憎まれ役に徹します」

 

マスコミや評論家は「鉄道博物館から引っ張り出されたオンボロ機関車」と揶揄し、次の総裁が見つかるまでの「ツナギ」総裁と皆が口々にしていました。

 

ところが、このオンボロ機関車こそが、この国の今日の発展の源を作ってゆくのです。

それはこの時点では、誰にも予測だにし得ないことでありました。

(つづく)

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【書評】新幹線を走らせた男〜十河信二という一人の男が燃やした執念

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